日本では飛鳥時代(古墳時代後期)に身分の高い人々が牛乳を飲んでいたようですが、牛乳が一般化するのは明治時代になってからです。明治初期はブリキ缶にいれて量り売りしていましたが、不衛生な環境から食中毒を引き起こすことがありました。このため明治36(1903)年、牛乳の容器には実質的にガラスびんしか使用できなくなりました。


出土した牛乳びんには広口でガラスが厚いもの(現在の牛乳瓶につづく)と細口でガラスが薄いものの2種類があります。いずれもガラスに気泡が多く入り、厚さも不均一であることから昭和初頭までのものと考えられます。その中で注目できるのが「我孫子」「彌生軒」「(定價金拾銭)」「全乳」「正一合入」の浮き出し文字が記された弥生軒のものです。弥生軒は我孫子駅の駅弁販売業者(現在は駅売店を営業)で昭和3(1928)年に創業しています。弥生軒には「裸の大将」として有名な画家・山下 清氏が一時寄寓し、駅弁の包装紙を描いたことでも知られています。総務省統計局から刊行されている『日本長期統計総覧』に掲載されている「品目別東京小売価格」によると、昭和16(1941)年ごろ牛乳一合(180cc)の平均価格が約10銭であり、このびんの年代を示しています。


「筑波牛乳」「NET」「180cc」の浮き出し文字とマーク(筑波山とTKB)があります。このマークは筑波乳業株式会社(本社;茨城県石岡市)のものです。我孫子市内にも筑波乳業の特約牛乳店があり、びん入り牛乳が配達販売されていました。筑波乳業は昭和45(1970)年にびん入り牛乳の生産を中止していることや表記法からみて、太平洋戦争後から昭和40年代前半までのガラスびんと考えられます。

このびんにはラベルは残っていませんが側面下部には「MEIJISEIKA KAISHA」の文字があります。「明治製菓会社」(現在の明治製菓株式会社)は大正13(1924)年に創業しました。日中戦争が泥沼化する昭和13(1938)年に市販用缶詰飲料の生産が制限されるとガラスびんを使ったものに切り替えられます。このガラスびんはフルーツシロップ(水や炭酸で薄めてジュースにするか、かき氷にかけて食べる)350ccを入れたもので昭和26(1951)年まで生産されていました。また明治製菓は太平洋戦争末期に抗生物質であるペニシリンの培養研究を行っていましたが、戦後の昭和21(1946)年には国からの要請もあり、空襲で焼け残った川崎工場の一郭でシロップびんを洗浄してペニシリンを培養、生産しました。ペニシリンは青カビから培養した物質が細菌の繁殖を抑えることを応用して開発された薬で、肺炎や敗血症などの特効薬として戦後の混乱期に多くの人々の命を救いました。明治製菓ではペニシリン1トンを培養するのにシロップびんを1日7000本洗浄した記録が残っています。ちなみに製薬部門を有する製菓会社は現在では明治製菓のみで、このびんが起源となっています。

ペプシコーラは日本では太平洋戦争敗戦後の昭和22(1947)年にアメリカ軍用として基地内で販売されたのが最初のようです。このびんは胴部に大きな「ねじり」がある最近のものとはデザインが異なっており、昭和30年代以前のものと考えられます。ちなみに『湖北小学校百年史』によると敗戦直後にアメリカ軍兵士がジープで湖北小学校付近にもたびたび訪れ、子供達がチョコレートやガムを配る様子が記されています。ひょっとしてこのびんはそのときにアメリカ軍兵士が子供に残していったものなのでしょうか?みなさんはどう思われますか?
ラムネとサイダーの違いは?答えは「中身は同じ。びんが違う」。ラムネ・サイダーは水に香料・甘味料を加えて加圧したもので、玉口栓のガラスびんに入れたものを「ラムネ」、王冠栓のガラスびんに入れたものを「サイダー」といいます。
玉口栓のラムネは明治10〜20年頃、イギリスで開発され、日本では明治25(1892)年に徳永玉吉が国産化に成功しました。現在ではガラスとプラスチックを合わせたものやペットボトル製のものが主流です。玉口栓びんは洗浄しにくく、子供が「ビー玉」を取ろうと壊すため回収率が悪く、次第に王冠栓に取って代わられます(日本以外で玉口栓を見た方はいますか?)。
「金線サイダー」は明治32(1899)年、横浜の秋山巳之介がつくったサイダーです。「日本麦酒鉱泉」は大正10(1921)年から昭和8(1933)年の間にあったビール・サイダー製造会社で、のち「大日本麦酒」に合併されます。「三ツ矢サイダー」の製造会社です(現在、「三ツ矢サイダー」はアサヒビールが製造・販売しています)。

このびんは外面に軍配の模様と「大関 本長部醸」の文字が浮き出していることから清酒「大関」のびんであるとわかります。口の部分は「機械栓」を取り付けたと考えられます。またガラスは気泡が多く入り、半自動製びん機によるものと考えられます。大関のびんを一手に生産していた神戸の日本山村硝子では大正11(1922)年に半自動製びん機を導入し、昭和3(1928)年に自動製びん機を導入していることから、この間のものと考えられます。またこのびんの外面には「大関 本長部醸」の文字が浮き出していますが、回収・再使用のため文字のないものが普通です。太平洋戦争末期の神戸の大空襲で社屋・資料のほとんどを失った大関株式会社では、今回はじめてその存在を知ったとのことです。
国産ワインの製造は明治初頭から始まっていましたが日本人の舌に合うものがなかなかできませんでした。そのためワインに砂糖や香料を加えた甘味ぶどう酒や香味ぶどう酒が明治〜昭和初期の主流となりました。

びんの首の部分に「DAIKOKU BUDOSHU」とありますがウィスキーのびんです。大黒葡萄酒株式会社は明治25(1892)年、山梨県で国産ワインの醸造を行っていた宮崎光太郎が設立した会社で昭和27(1952)年に長野県塩尻でウィスキーの生産を始めました。のち大黒葡萄酒はオーシャン株式会社と改称し、三楽酒造株式会社に合併、現在は「メルシャン」ブランドで洋酒の醸造・販売を行っています。

これらのびんには「DAINIPPON BREWERY CO.LTD」「TRADE MARK」とあります。これは大日本麦酒株式会社のビールびんです。明治時代になると横浜に寄留した外国人がビール醸造に乗り出し、明治18(1885)、ジャパンブルワリーカンパニーが設立(後のキリンビール)、同20(1887)には北海道開拓使の施設を受け継いだ札幌麦酒会社(後のサッポロビール)、日本麦酒醸造会社(後のエビスビール)、大阪麦酒会社(後のアサヒビール)など多くのビール会社が設立され熾烈な販売競争を行います。その結果、明治39(1906)年、札幌・日本・大阪の三社が合併し、大日本麦酒株式会社を設立、一時はシェア70%を占めます。このびんは自動製びん機によると考えられます。
キリンビールの贈答用木箱です。大びんが6本入りました。キリンビールは明治3(1870)年、スプリング・バレー・ブルワリーとして横浜で誕生し、明治18(1885)年にトーマス・クラバー(長崎のクラバー邸で有名)や渋沢栄一・大倉喜八郎によってジャパン・ブルワリーに改組、明治21(1888)にはブランドを「キリンビール」として総合食品会社の明治屋(現 明治屋)と一手販売契約を結びました。この箱にも明治屋が販売している様子がわかります。明治屋のキリンビールの一手販売は昭和2(1927)年まで続いていましたので、この箱の時期がある程度特定できます(布佐 榎本町子氏寄贈)。

汽車土びんは駅でお茶を入れて売る容器です。明治5(1872)年に新橋・横浜間で鉄道が開通、明治22(1889)年には茶所として有名な静岡駅で最初の汽車土びんが販売されています。汽車土びんは湯呑みとセットになり、外面には駅の名前が書かれているものが多く、益子や信楽、瀬戸、美濃など有名な焼き物の産地で焼かれていました。昭和40年代以降は陶器から安価なポリ容器のものに代わり、現在に至っています。今回展示したのは「小田原提灯」の形をした小田原駅のもので、昭和30年頃と考えられます。 ガラス茶びんとはガラス製の汽車土びんです。片面に「丁卯商會(ていうしょうかい)」と富士山、もう片面に「實用新案」と桜の浮き出し文様があります。大正11(1936)年に陶器の汽車土瓶に代わってガラス茶びんのみを使用するように、という通達がありましたが、捨てたガラスが危険であることや客からの不評もあり、ほどなく陶器のものに戻されました。このためガラス茶びんは大正末から昭和初期のごく限られた期間のみで使用され、大変少ない貴重なものです。

「資生堂」を名乗る2つのびんがあります。透明なびんには「福原資生堂」、藍色の小びんには「神薬」「資生堂製」「DISPENSARY」「SISEIDOTOKIO」とあります。「資生堂」は明治5(1872)年に銀座で福原有信が「資生堂薬局」として創業しました。その後、資生堂は製薬業にも進出しましたが、製薬部門は倒産、売薬権が分売されて「山内資生堂」「室町資生堂」など「資生堂」を名乗る会社が複数現れました。一方「資生堂」創業者の福原氏は本来の「資生堂薬局」の経営に専念し、他の「資生堂」と区別するために「福原資生堂」と名乗ったようです。この「福原資生堂=資生堂薬局」はその後他の「資生堂」を圧倒し、現在の「資生堂」へと発展していきました。
一方「神薬」の方は「資生堂」を名乗る会社(資生堂薬舗)から明治7(1875)年に売り出された「諸病の薬」です。効能書きによると「コレラ、攪乱、手足の冷え、胸痛、腹痛、食傷、赤痢、痛風、破傷風、咳、水あたり、頭痛、歯痛、疱瘡、麻疹」などまさに万能薬をうたった薬だったようです。明治時代初頭は文明国としての日本を早く諸外国に認めさせるために公衆衛生の徹底や風土病の抑制が緊急課題でした。藍色の小粋なガラスびんに入れられた「神薬」はそれを使う人々にまさに「神のごとき効果」を示したことでしょう。

「健脳丸」は明治29(1896)年に大阪の丹平商会(現;丹平製薬株式会社)が売り出したもので、当時としては画期的な「脳神経薬」でした。丹平製薬によると、ヒステリー、頭痛などに効く錠剤が入っていました。昭和52(1977)年に厚生省(当時)の指導により成分の見直しを行った結果、脳神経に効く効能をやめて、現在では「健のう丸」の名前で便秘薬として発売されています。なお丹平製薬の製品としては歯痛の薬として有名な「今治水」があります。
目の病気(結膜炎、トラホームなど)は不衛生な環境に置かれ、「まき」で煮炊きや暖房をした明治期の人々にとってさけて通れない問題でした。このため明治初頭より数多くの目薬が販売されました。出土した目薬のびんは大きく分けて2種類あります。・ガラス小びんに点眼用のガラス管が伴うもの(ガラス管式)・ガラス容器の上部にスポイトゴム、下部に点眼口があるもの(両口点眼式)。・では参天堂薬房(現 参天製薬株式会社)製の「大學目薬」(今回のびんは商号からみて明治40(1907)年から大正2(1913)年まで)、発売元不明の「應用目薬」のものがあります。また・では信天堂山田安民薬房(現 ロート製薬)のものがあります。信天堂山田安民薬房では昭和6(1931)年に両口点眼式「ロート目薬」を開発し爆発的な人気を得ました。昭和24(1949)年にはロート製薬株式会社と改称し、昭和30年代末にはプラスチック容器を導入することから、・は昭和6年以降、30年代末以前のものであると考えられます。

いずれも水薬を入れたもので、側面に目盛りと病院名が浮き出しています。現在ではほぼポリ製となっています。
「矢口病院」=我孫子駅南口、国道356号線に面した場所にありました。
「鉄道病院 鉄道診療所」=国鉄(現JR)が運営していた病院。昭和2(1927)年から東京代々木にあります。
「回春堂醫院」「中村醫院」「田村醫院」=所在地不明です。


ヘチマコロンは大正4(1914)年に創業した化粧水製造会社で、大正デモクラシーの時代を背景に竹久夢二の美人画やハリウッド映画女優を取り上げた宣伝広告をいち早く取り入れたことで知られています。このガラスびんは緑色のガラスに「ヘチマコロン」の浮きだし文字、鉛を主体とした金属とコルクを組み合わせたキャップの上面には「TOWEL GOURD☆TOILET☆」(GOURD=ヘチマ)と記されています。年代についてはヘチマコロン株式会社保存の資料から大正10(1920)年から昭和8(1933)年のものと考えられます。
美顔水は明治18(1885)年、和歌山の薬局「桃谷順天館」の主人が、にきびに悩む婦人のために作り出した「にきびとり」の薬です。美しい藍色の小びんは若い女性を中心にヒット商品となりました。

椿油のびんは上部が開く独特な形をしています。江戸時代以来、伝統的な整髪料ですが、洋装や洋髪が入ってくると、ハイカラなガラスびん容器となり生産されます。ラベルや文字が残っていないので生産した会社などの手がかりがなく詳しい年代などは不明です。
「君が代」は今で言うところの「ヘアカラー」で、明治38(1906)年に創業した株式会社君が代から発売されました。びんの形や色は様々ですが、「君が代」「定量」「MADE IN JAPAN」の表記は同じです。「アリミノ」は昭和21(1946)年に創業した株式会社アリミノから発売されたヘアカラーで、美容院専門に卸されています。
塩のびんと思われるものが3種類出土しています。「行徳 及川製 六号二十匁入」(二十匁は75グラム)「三号壱百匁入」(375グラム)などとあります。「匁」は普通乾いたものを量る単位であり、行徳(市川市)の銘からみて塩を入れたびんと考えられます。塩は縄文時代以来広く作られてきましたが、明治38(1905)年、日露戦争の戦費を捻出しようとした政府は専売制を敷いて塩の生産・販売を許可制としました。これらのびんは明治末〜昭和初頭のものと考えられます。また「日本専売公社」のびんは専売公社があった1949(昭和24)年から1985(昭和60)年の間です。なお塩の専売は実質平成9(1997)年(制度上は平成14年)に廃止されました。

びんの底には三角形を二つ組み合わせた「六芒星」が描かれています。ラベルの残るものにはトマトの絵と底には「AICHI TOMATO CO.」の文字があります。これはトマトケッチャップのびんです。「愛知トマト」(現 カゴメ株式会社)は、創立者が兵役にあるときにトマト栽培を思いついたことから、陸軍の象徴である「五芒星=☆」を会社のマークにしようと考えました。ところが陸軍ではそれを許可しなかったため「六芒星」にしました。「六芒星」は古くから「籠目」文様と呼ばれているため「カゴメ」を会社名にすることにしたそうです。このびんは昭和初期以降で、愛知トマト株式会社がカゴメ株式会社に改称した昭和38(1963)年以前のものと考えられます。
ソースもカレーと同じく江戸時代末期から明治初頭にかけて日本にもたらされたもので、洋食の普及と共に各地で国産ソースが作られるようになります。「三ツ矢ソース」は1894(明治27)年に越後屋産業(現 ハグルマソース株式会社)から発売されたものです。このびんは製造法からみて大正末〜昭和初期のものと思われます。

カレー粉びんには「関東カレー工業組合指定壜(かんとうかれーこうぎょうくみあいしていびん)」の浮き出し文字があります。カレーは江戸時代末期、横浜に来航した外国人によってもたらされ、早くも明治5(1872)年には『西洋料理通』という本で作り方が紹介されています。栄養のバランスに優れたカレーは日本海軍の艦隊食にも採用されて急速に普及し、明治時代の後期には洋食屋の定番メニューとなりました。その頃のカレーはイギリスのC&B社のカレー粉を溶いて使うものがほとんどでしたが、1930(昭和5)年、東京の日賀志屋(現在のヱスビー食品株式会社の前身)が日本人の口に合う国産初のカレー粉(ヒドリ印)を発売しました。関東カレー工業組合は日中戦争が激しさを増す昭和14(1939)年にカレーに必要なスパイスなど原材料確保を目的として設立されたものです。つまり、このびんは昭和14年から20年までのものと考えられます。きっと我孫子にもこのカレーの香りが漂っていたことでしょう。
西原遺跡と野守遺跡からは水色や緑色の小型円形ガラスびんが数多く出土しています。大きさ別に大=100cc、中=50cc、小=25ccの三種類に分けることができます。底面には「ヤマト糊」と表記されるもののほか、「矢と的」のロゴマークを残すものもあり多くはヤマト糊のびんと考えられます。日本では古くからデンプンや米から作った糊を使っていましたがすぐに腐ってしまい保存できませんでした。ところが明治時代以降、学校や官公庁で糊が大量に使用されるようになると、保存の効く糊を求める声が大きくなり、明治32(1899)年にヤマト糊本舗(現ヤマト株式会社)が腐らないように化学処理した糊を作りました。ヤマト糊では昭和33(1958)年、容器をガラスからプラスチックに切り替えており、ガラス容器は少なくともそれ以前のものと考えられます。出土したものをよく観察すると、水色のガラスのものは気泡が多く未熟で、緑色のものは品質が一定してきており、水色から緑色へと変遷している可能性があります。
また西原遺跡と野守遺跡からは白い陶製の容器が大量に出土していましたが何の容器であるか不明でした。今回の展示会に当たって糊のガラス容器と並べてみると大きさがほぼ一致することが分かりました。ヤマト株式会社に問い合わせると太平洋戦争が激化した昭和10年代後半から20年頃にかけてガラス容器から陶製の代用容器に切り替えたそうで、当市で出土した白い陶製容器も糊の代用びんであることが分かりました。


インクびんは大まかに大=約50〜60ccと小=25〜30ccとに分けられます。また丸いものと四角いものガラスが緑色のものと透明のものとに分けることができます。底部にはアルファベットや記号が記されるものもありますが、このうち○にMと記されたものは「丸善」製のインクびんと考えられます。丸善は明治2(1869)年に創業した書籍・文具・雑貨を取り扱う商社で(京都店は梶井基次郎の『檸檬』でも有名)、明治11(1878)年に丸善インキを発売しています。明治30年頃に万年筆が輸入されるようになり、明治40(1907)年には公文書でのインク使用がようやく認められインク需要が増大します(カートリッジ式インクは昭和33(1958)年にセーラー万年筆が最初)。今回展示したインクびんは学校・役場の敷地内ということで、明治末〜昭和初期に学校や役場で使われたものと考えられます。
湖北小学校の一部だった西原遺跡では硯が多く見つかっています。硯には黒石を使った石製硯と瓦を使った瓦製硯があります。おそらく瓦製のものは石製の代用と考えられます。裏面には「男 星野進 星野護 日本」「上新木 秋本明」「高嶋長二」など所有者の氏名が書かれているものもありました。また西原遺跡とは国道356号線を隔てて北側の野守遺跡では土地所有者阿曽氏の縁者「阿曽達雄」の硯が出土しています。


野守遺跡と西原遺跡からはこんぺいとう(金平糖)やニッキ水・ハッカ水のびんが大量に出土しています。こんぺいとうびんは大砲型、バット型、風車型、ひょうたん型、太陽型、自動車型、市電型、ピストル型、イチゴ型、バイオリン型など様々な形があります。子供の心をくすぐる愛らしい造形をお楽しみ下さい。またニッキ水・ハッカ水のびんはヒョウタン型、ラムネびん型など大小さまざまな形があります。こんぺいとうびんやニッキ水のびんは駄菓子屋で売られていたものですが、湖北小学校付近には最近まで駄菓子屋がたくさんありました。現在は駄菓子や文房具を扱う店が2軒残っていますが、いずれも昭和35〜40年に店を始めたそうで、こういったガラスびんは扱ったことがないとのことでした。
少なくともそれ以前のものと考えられますが、皆さんの記憶ではいかがでしょうか?
石けり用おはじきは、地面にマス目を描き、石を投げたり、けったり、マス目を飛んだりする「石けり遊び」のための「コマ」です。溶かしたガラスを型に流し込むか、型を押しつけて作っています。型には新しもの好きな子供を意識してか当時の人気のキャラクターが描かれており、世相や流行を知る資料となっています。駄菓子屋で売られていたようですが、道路の舗装が進む昭和40年代には姿を消していったようです。
石けり用おはじきの製造法とキャラクターに注目すると、
表面に“ツェ伯号”の文字と飛行船のイラストが記されています。“ツェ伯号”とはドイツの飛行船“ツェッぺリン伯爵号”のことで、昭和4(1929)年8月19日、世界一周飛行の途上で日本に立ち寄り、東京・横浜を周遊して霞ヶ浦(土浦市)の格納庫に着陸しました。当時、飛行機はまだ小型で長距離を飛ぶことは困難であり、飛行船は世界各地で旅客用に就航していました。ツェッぺリン伯爵号の飛来は東京近郊の住民に驚きと熱狂とをもたらしました。特に子供たちに与えた未知なる世界に対するロマンと知的好奇心は大きく、飛行船はジュブナイル(少年少女冒険小説)やイラストの題材として取り上げられていくことになります。

昭和初期の1930年代はアールデコという柔らかな曲線を強調した芸術・デザインが流行し、「流線型」が合い言葉となりました。蒸気機関車や自動車にも空力を意識した「流線型カバー」が取り付けられました。
忠臣蔵は大正〜昭和初期にマキノ省三や尾上松之助、溝口健二によって何度も映画化され人気を博しました。戦後は復讐劇であることからGHQにより制作・上映を禁止されましたが昭和27(1952)年解除されました。
早慶戦は東京六大学における早稲他大学と慶應義塾大学の野球の試合です。戦前はプロ野球よりも人気がありラジオ中継されていました。エンタツ・アチャコの傑作漫才「早慶戦」は昭和8(1933)年のことです。(早慶戦と自転車の石けりは市外出土=大坪三紀子氏蔵)

絵柄から見て戦争が子供たちの生活に影響しはじめる昭和10年代後半のものと思われます。特に予科練(海軍飛行予科練習生)は「若鷲の歌」(「若い血潮の予科練の〜七つボタンは桜に錨〜」=昭和18年)や、敗戦間近には特攻隊の中核となったことで知られる少年航空兵のことです。当時は子供たちの憧れの的でした。

ペコちゃんは株式会社不二家のキャラクターとして有名です。不二家は明治43(1910)に藤井林右衛門が横浜に開業した洋菓子店を皮切りに、銀座で喫茶室を開店し、流行の先端をいくモダンボーイ・モダンガール(モボ・モガ)の集う場所となりました。戦後昭和25(1950)に銀座の店頭にペコちゃんの人形が置かれて評判になったため、翌年に発売された「ミルキー」のキャラクターに採用されました。なおこの石けりは不二家とは関係なく、昭和25年以降に模倣されたものと考えられます。
また大鵬は昭和30年代後半から40年代前半に活躍した横綱で端整な顔立ちから子供に人気があった。子供が好きなものを並べた「巨人、大鵬、卵焼き」は昭和36(1961)年の流行語。ちなみにこの年はソビエトの宇宙飛行士ガガーリンが人類初の有人宇宙飛行を行い、「地球は青かった」の名言を残したほか、「トリスを飲んでハワイに行こう」「お呼びでない」が流行語となりました。
兵隊盃とは太平洋戦争激化以前、3〜4年間の兵役期間を終えた若者が満期除隊する際に記念として肉親や近隣の方々に配った盃のことです。除隊間近の兵士が出入りの業者に発注して作らせたもので、プリント地の絵柄に手書きの文字を加えたものや全部手書きのものなど様々です。1は外形が鉄カブト型で桜型高台、内面には日の丸のかかった万里の長城らしき場所を背景に、カーキ色のコート・鉄カブトを身につけ銃剣を着帯した兵士が立つ姿と「國の為捧けし命永らへて」の文字が入ります。2は桜型高台、内面にボンネット型自動車、五芒星☆、「記念 野重七(野戦輜重第七連隊?)」を金字で記しています。3は日の丸をつけた旗竿が交差して「(湖)北」と金字で記しています。4は五芒星☆に「招魂記念 湖北分會」と金字で記しています。・・は厳密に言えば兵隊盃ではなく在郷軍人会などの会合記念として作られたと考えられます。


この茶碗の外側には汽車の窓から手を振る兵士たちの絵と「露営の歌=勝ってくるぞと勇ましく〜」の歌詞の一部が残っています。「露営の歌」は昭和12(1937)年、東京日日新聞・大阪毎日新聞の懸賞入選歌で、古関裕而氏(代表作「紺碧の空」)が作曲しました。戦争へと傾く時代を反映した昭和の歌謡として有名です。

この白い磁器の見込みには日本赤十字社紋(金で「桐竹鳳凰」、中心に赤十字)を描き、底部には「日本赤十字社千葉支部第一回総會」と記されています。日本赤十字社は明治20(1887)年、佐野常民によって設立され、千葉県では明治25(1892)年に124名の社員で支部の前身組織が設立されました。その後明治27(1894)年の日清戦争での救援活動の結果、国内での組織充実が叫ばれるようになり、明治30(1897)年、県内の社員を1万2千名と大幅に増やして第1回千葉支部総会が開催されました。展示した盃は第1回千葉支部総会にあたって、日本赤十字社千葉支部より我孫子在住の社員や関係者に記念品として配布されたものと推定されます。

この盃は白い磁器で内側に「湖北村役場 湖北小學校建築 記念」外側に「大正十五年十一月」と金字で記してあります。「東葛飾郡湖北尋常高等小學校沿革史」によると大正15(1926)年11月21日に「學校増築落成式竝ニ校旗樹立式挙行」とあり、この盃は校舎の増築記念に村から関係者に配られた記念品であると考えられます。なお湖北小学校は明治7(1875)年にそれまでの寺子屋(私塾)を再編成して中峠小学校として現在の龍泉寺に開校し、明治26(1894)年に現在の湖北地区公民館・湖北支所・湖北小学校北側に校地が定められました。この盃は自分たちの学校を誇りに思う地域の人々の思いがこめられた貴重な逸品です。

この湯のみに記された「成田線出荷組合」とは成田線(成田−我孫子―上野)を使って農産物を東京に行商する人々の組合です。昭和7(1932)年、行商者で混み合う列車を統制したい鉄道側の要請から成常行商組合(「成常」とは成田線と常磐線のこと)が結成され、戦時中の国策協力による解散をはさんで昭和29(1954)年に成田線出荷組合として再出発しました。この湯のみも昭和29年の組合再出発の際に関係者に配られたものと考えられます。行商者の多くは農家の婦人たちで、60キロから120キロの荷物(米・みそ・野菜・肉・魚介・餅など)を背負って東京のお得意さんを目指しました。行商組合・出荷組合の最大のメリットは早朝に出荷組合専用列車を運行できたこと、そして組合に加入すると定期券が買えたことでした。
行商者は最盛期(昭和10年代後半と20年代前半)には成田線沿線で一日3000人、湖北駅だけで一日300人いました(現在では全線で200人ほど)。行商者が増えた背景には度重なる洪水や干ばつで農村が疲弊していたこと、農産物を大きく育てる肥料を購入するには現金が必要であったことが挙げられます。また、東京からの帰りに珍しいモノを買って帰る人もおり、今回出土した珍しいびんは彼女たち行商者の背に負われて持ってこられたものかもしれません。なお布佐駅・新木駅・湖北駅・東我孫子駅には行商者が荷物を担いだまま休める鉄の台があります。

