甕カメえぶりばでぃ

2002年夏に開かれた考古展をもとに、古くは縄文時代から、形を変えながら現在に至るまで用いられている甕(カメ)の歴史を概観し、生活とのかかわりを考えます。

1.なぜ甕か?

はなさかじいさん
はなさかじいさん

甕というと有名な昔話を思い出します。「はなさかじいさん」でポチに導かれて畑を掘った正直じいさんは「甕に入った大判・小判」を掘り当てます。また「さるかにがっせん」ではやけどした猿を水甕に隠れていたハチが刺します。これらは後に絵本などで印象づけられたものも多いとは思いますが、誰でも思い浮かべるということは私達は無意識に甕が暮らしに必要不可欠だと思っているからでしょう。  甕は貯蔵・煮炊きといった色々な機能を持ち、人間の生活に欠かせない土器として長く使用されてきました。そのため、そのかたちは人間の生活環境の変化に伴い変わっていきます。  今回の展示会では我孫子市内で出土した甕類のうち代表的なものを集めました。その美しさを通じて、人間の叡智を感じ取っていただけたら幸いです。

2.甕ってなに?

下にA〜Cの3つの土器があります。果たして甕はどれだと思いますか?

どれが甕でしょう?

考古学ではまず、土器の形ごとに分類をします。

そしてそこに名前を付けます。通常、A=甕、B=壷、C=鉢、と呼んでいます。
ただし、実際にはA・B・Cそれぞれの中間のような形が存在しており、分類は決してやさしいものではありません。また、時代の移り変わりはあっても甕・壷・鉢とも極めて似た使い方をしているため、今回の展示会ではこの三者を同じグループとして取り上げています。

3.甕の使い方

甕の機能と形態分化
甕の機能と形態分化

甕というと水甕がすぐに思い出されますが、実際の使い方としては・貯蔵(ためる)・煮炊き(火にのせる)の2点があります。さらに貯蔵では液体の貯蔵と個体の貯蔵に分けられます。そこで甕に入れていたものと、最近では甕のかわりにどのようなものが使われているかを示したのが右の図です。

一口に甕といっても様々な役割を果たしていたことが分かります。

展示の様子

4.縄文土器と深鉢

約1万3千年前から紀元前3百年ころまでを縄文時代と呼びます。縄文人は稲作を行わず(終わり頃になると一部で稲作が行われていた)狩猟・採集・漁労の生活を送っており、縄文土器と呼ばれる土器を使っていました。縄文土器はロクロを使わず粘土を積み上げて成形し、窯を使わず600℃位で野焼きされていました。表面の文様は縄文(撚りをかけた紐を転がしてつける)が代表的ですが、しの竹やヘラ・貝を使った文様などと組み合わせて、複雑な文様を作り出しています。土器の文様は時代・地域によって独特で、文様の分布から人間集団の存在やその移動などを考えることもできます。

縄文土器のうち7割を深鉢型の土器が占めており、縁に飾りが多いものは貯蔵用、縁が平らなものや表面に焦げがつくものは煮炊き用と考えられています。煮炊き用はカマドがまだ使われていなかったため、キャンプファイヤーのような炉で使用され、スープの調理のほか、ゆでたり煮たりした加工食を作りました。その結果、縄文時代人の栄養・衛生状況が改善され、彼らの寿命の向上につながり、弥生時代を迎える社会構造の変化につながっていったと考えられます。

展示の様子

5.弥生土器と壺・甕

弥生土器

紀元前3百年前から紀元3百年頃を弥生時代と呼びます。弥生時代は邪馬台国に代表される小さな国々が争う国家成立期であり、大陸から伝わった稲作・青銅器・鉄器が広まる時代です。使われた土器は弥生土器と呼ばれますが縄文土器と同様、ロクロや窯を使わず野焼きで焼成しました。ただし回転台を利用した文様や金属器を利用した道具を使用する点は縄文土器より技術的な発達が認められます。また、縄文土器では主流であった深鉢が減り、壷・甕が全体の8割を占めるようになります。これは米を中心とした食生活・ライフスタイルの変化を反映したものと考えられます。

我孫子においては弥生土器が出土するケースは極めてまれで、日秀地区・高野山地区(市役所付近)・寿地区(第一小付近)において土器片がわずかに出土するのみです。なぜそのような状況なのかは不明です。

展示の様子

コラム1/煮たか蒸したか?〜お米の食べ方をめぐる論争〜

日本人は弥生時代になり稲作と共にお米を食べるようになります。弥生土器でも甑(蒸し器)に似た土器が出土することから「お米は蒸して食べた」とされていました。ところが「お米は煮て食べたのか、それとも蒸して食べたのか?」という議論がおきました。発言者は今年7月に亡くなった佐原 真さんです。佐原さんによると、「確実な蒸し器は5世紀以降、カマドの登場と同時であり、それまでは甕でお粥状に煮て食べた。平城宮(奈良)の発掘でもコゲのついた甕は大量に出土するが甑は少なく、米を蒸すのは祭など特殊な場合であった」また「東日本では毎日もち米を蒸して食べ、西日本ではうるち米を煮て食べて祭の時には蒸していたかもしれない」とも語っています(『食の考古学』)。

果たして、我孫子で発掘をすると煮炊きに使ったと思われる甕にコゲや炭化した米はついておらず、甑は土師器・須恵器とも多く出土します。となると佐原さんの「東日本もち米常食説」がクローズアップされるのですが、東日本ではもち米を栽培し、西日本とは異なっていたということになり大問題となります。

今は亡き佐原さんはどうおっしゃるか、みなさんはどう思いますか?

6.土師器と甕

土師器とは紀元3百年以降、古墳時代から奈良・平安時代を通じておよそ千年間使用された、縄文土器・弥生土器の「子孫」にあたる素焼き土器のことです。

4世紀〜5世紀前半の土師器の甕は赤く塗った貯蔵用と塗らない煮炊き用があります。煮炊きといっても我孫子では5世紀後半にカマドが導入されるまでは炉で使っていました。弥生土器の甕と共通する「球形」の胴部は炉に最適化したものと考えられ、カマドの普及と共に胴部は細く変化します。6世紀以降になると我孫子だけでなく利根川中・下流地域、霞ヶ浦沿岸からは「常総甕」と呼ばれる特有な形の甕が分布します。その背景には甕づくりを仕事とする職人集団がいたと考えられます。

展示の様子

常総甕の分布
常総甕の分布
常総甕の特徴/7世紀前半のもの
常総甕の特徴
(7世紀前半のもの)

7.我孫子市最大の土師器の壺

我孫子市内最大の甕
我孫子市内最大の甕

右図は我孫子中学校校庭遺跡で出土した我孫子市最大の土師器の壷です。古墳時代前期(4世紀末)と考えられます。竪穴建物の炉跡上で支脚(五徳のような支え)にのったままつぶれた状態で出土しました。 口径48cm胴部最大径88cm高さ82cm以上で、復元すると容量260リットル(ポリタンク13本分)という巨大なものでした。これが炉跡上から出土したということは、煮炊きに使用したということになります。果たして一体、誰が、どんな目的からこの巨大な壷を作って、何を煮炊きしていたのでしょうか?

展示の様子

コラム2/土器の形と技術革新〜熱エネルギーの有効活用〜

土器を使用し始めた人類は縄文時代以来、土器自体あるいは炊事施設の改良を通じて、熱の効率的利用方法を発達させました。その変遷を追ってみましょう。

縄文時代
深鉢型だと底部付近しか熱くならず、熱エネルギーの多くが周辺に放出される。
弥生時代・古墳時代前期
胴部を球形にふくらませた甕型だとより多くの部分が熱せられるが、熱エネルギーは依然多く周辺に放出。
古墳時代後期・奈良時代
カマドの採用と共に熱効率は飛躍的に向上する。ただし甕の形は球形なのでカマドにかかる部分は少なくムダもある。
平安時代
甕は細長く、カマドにかかる部分が増える。厚さも薄くなり熱エネルギーを効率よく水に伝えられるようになる。

熱利用形態の変遷図
熱利用形態の変遷図

8.須恵器と甕

須恵器とはカマドの出現とほぼ同時期(5世紀前半)に朝鮮半島からもたらされた技術で作られた土器のことです。須恵器はロクロを使って形を作り、登り窯で1000℃以上に還元焔焼成(空気を遮断して焼く)するため青灰色に堅く焼きしまります。このため高価な金属製品の模倣品のほか、蒸発を防ぐことから貯蔵用の甕が多く作られました。

我孫子で出土する須恵器は7世紀代までは猿投(名古屋)産、湖西(浜松)産などが中心で、はるばる海路を通ってもたらされたようです。8世紀以降は隣の常陸(茨城)に多数窯が作られ甕だけでなく甑や杯・高杯・蓋などが大量に供給されています。

展示の様子

須恵器の搬入
須恵器の搬入
須恵器の甕と甑
須恵器の甕と甑

コラム3/土師器V.S須恵器

土師器と須恵器はいったいどこが、どのように違うのでしょうか。焼き方や色調、使い方の観点から比較してみましょう。

土師器と須恵器の比較図

9.須恵器の甕は残らない

須恵器の甕は水を溜めるの図
須恵器甕は水を溜める

展示してある須恵器の甕を見て「数が少ないな」とお思いではないでしょうか?実は、須恵器の甕は土師器の甕に比べて数が大変少なく、復元不可能な小さな破片である場合が多いのです。なぜでしょう?

ひとつには野焼き状態で焼かれる土師器に比べて窯を築いて焼く須恵器が高価であり元々の数が少なかったという点があるでしょう。多少こわれても補修したりそのまま使い続けている可能性があります。

ふたつめには土師器の甕は直接カマドで火にかけるため、こわれやすく使い捨て感覚だったのに対して、須恵器の甕は貯蔵用として長く使用されたということです。今でも古い家で100年以上たった甕を水甕や金魚鉢として使っているケースはままあります。

考古学では年代決定も重要な仕事ですが、須恵器の甕はそれにあまり向いていないのです。

10.最期のご奉公〜骨蔵器〜

「形あるもの最後は壊れる」のは甕も人も同じです。

甕・壷に遺骨を納めるのは弥生時代の甕棺・壷棺があります。8世紀以降、火葬が取り入れられると、火葬骨を骨蔵器(骨壺)に納めるようになります。千葉県内では東京湾岸から印旛・手賀沼地域にかけて多く分布しており、我孫子でも数例確認されています。通常、骨蔵器として使用されるのは一部が欠けたり割れたりして甕として使用できなくなったものを転用する場合が多いようです。また、骨蔵器に骨を納めた後、杯などで蓋をする場合が多く、死者に対しての配慮がうかがえます。甕を転用する骨蔵器は少なくとも近世まで続くようですが現在では「専用の」骨蔵器(骨壺)が主流となっています。

甕に抱かれ見る夢は果たして何色か?人みな一度だけ知る機会があることは、骨蔵器が変わっても同じです。

展示の様子

新木南遺跡出土骨蔵器
羽黒前遺跡出土骨蔵器

11.中世陶器と甕

名古屋付近の中世陶器産地
名古屋付近の中世陶器産地

平安時代の終わり頃から鎌倉時代になるとそれまで土師器の甕を使っていた煮炊きは石や鉄の鍋に変わっていくようです。また貯蔵用の甕は須恵器の系統をひく渥美窯(愛知県渥美町)や常滑窯(愛知県常滑市)産の中世陶器が使用されるようになります。

ただし、中世になると古代のような深い掘り込みの建物ではなく、人々は地上式の建物に住むようになります。この建物は後世の耕作などで破壊されてしまい、鎌倉や京都などの大都市や城郭や墓地などの特殊な例を除くと、日々の生活にどのような土器=甕を使ったのかを知ることは困難になります。

展示の様子

12.おわりに〜甕が消える!?

甕と人間との関係は、人間が土器を使い初めて以来およそ1万2千年間にわたるものです。

ところが現代の生活を見ると、甕が果たしてきた重要な機能の一つ=貯蔵はガラスからさらにプラスチック、ビニール、ペットボトル、などに取って替わられています。さらに甕が果たしてきたもう一つの機能=煮炊きすら、レトルトパックと電子レンジに替わろうとしています。

「形態は機能に従う」という言葉を借りれば、現代人の暮らしに最も適応したものが残るのであって、それ自体に単純な善悪などをつけることはできません。

ただ、甕・鍋・釜などで炊きあげられたご飯の美味しさ、時に神々しいまでの美しさを知る我が身としては一抹の寂しさを感じるのもまた事実です。それとも単なるノスタルジアなのでしょうか。

みなさんはどう感じますか?


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